|
| 岡豊城 (おこうじょう) 別名:― 国史跡、続日本100名城(180) |
![]() |
場所 | 土佐国 高知県南国市岡豊町八幡字岡豊山 |
| 築城者 | 長宗我部氏 | |
| 築城年 | 南北朝時代〜戦国時代 | |
| 主な城主 | 長宗我部元親、長宗我部国親、長宗我部氏(代々) | |
| 主な遺構 | 曲輪、土塁、石垣、堀、礎石 |
| 歴史背景 |
| 岡豊城は土佐の国人領主だった長宗我部氏によって築かれたが築城年代ははっきり分かっていない。 長宗我部氏は岡豊城を本拠にして、戦国期には安芸氏、香宗我部氏、本山氏、吉良氏、大平氏、津野氏らとともに土佐七雄と呼ばれる有力豪族の1つだったが、その中では最弱の勢力だった。 元親の祖父・元秀(兼序)の時に山田氏などの周辺国人に攻められ、岡豊城は落城し元秀も自刃した。元秀の嫡男・千雄丸(元服後・国親)は中村の一条氏を頼って逃げ落ちたが、元服後に一条家の調停により岡豊城に帰還することができた。国親は大津城の天竺氏や山田城の山田氏などの周辺豪族を滅ぼし勢力を拡大し、さらに香宗我部氏に三男・親泰を養子として送り込み支配下とした。永禄三年(1560)、浦戸湾の支配権をめぐって本山氏と戦い、長浜城や浦戸城を獲得し周辺の海運支配を手に入れるが、戦いの後、国親は病となりそのまま病没する。 跡を継いだ元親は、永禄五年(1562)に有力豪族・本山氏の朝倉城を攻め落とす。しかし、その隙をついて土佐東部の雄・安芸国虎に岡豊城が急襲され落城の危機に陥るが、家臣・吉田重俊・重康親子らの奮戦により撃退している。その後、元親は本山氏、安芸氏を滅ぼし、名門・一条氏も撃破して天正三年(1575)に土佐一国をを統一する。そして、阿波・讃岐・伊予へ侵攻し、苦戦しながらも天正十三年(1585)までに四国の大部分を支配下に治める。 しかし、同年に豊臣秀吉の約10万ともいわれる圧倒的な兵力による四国攻めで、長宗我部軍は各地で敗れ、土佐一国のみを安堵され元親は秀吉の軍門に降る。 天正十九年(1591)頃,、元親が浦戸城を築いて本拠を移した後、岡豊城は廃城になったと考えられる。 |
![]() 岡豊城遠景 城の南側は国分川が天然の堀となっていた。 |
|
![]() 登城道(二の段へ) |
|
![]() 二の段へ上がる坂道の石垣 |
|
![]() 二の段へ上がる石段 |
| 城について |
| 岡豊城は標高97mの岡豊山に築かれた山城で、南側を流れる国分川を天然の堀としている。山頂部の本丸にあたる詰を中心にしてその周囲に二の段、三の段、四の段、その他の曲輪が配置され、所々に石垣、堀切がみられる。 現在、城跡は歴史公園として登城道が整備されており、山城ながら非常に散策しやすくなっている。また礎石建物跡がよく残っているため、当時の建物の様子を容易に想像することができる。 |
![]() 二の段 長さ45m、最大幅20mの曲輪で、詰とは堀切で隔たれている。 |
|
![]() 二の段 |
|
![]() 詰めと二の段を隔てる堀切 幅3〜4m、深さは2m前後あるとのこと。 詰め側は結構な高さにみえます。 |
|
![]() 堀切の手前にある井戸跡 現在は埋まっているが、岩盤を3.6mほど掘りこんであり、雨水を溜める溜井として使用されていた。 |
|
![]() 堀切と井戸 少し、引きで撮ったらこんな感じです。 |
|
![]() 詰下段 礎石建物跡1棟、土塁などの遺構が発見されている。 詰の東側下段に位置する小曲輪で、二の段から詰への侵入口の守るために造られたと考えれている。 |
|
![]() 詰下段 東側に石積がみられる。 |
|
![]() 詰 岡豊山の頂上部にある城の中心で、一般の本丸に当たる曲輪になる。 それ程広くないが、ここに建物が建っていたことはよく分かる。 |
|
![]() 詰 |
|
![]() 詰周囲の土塁 |
|
![]() 「高知県史跡 岡豊城跡」石碑 |
![]() 詰への登り口 |
![]() 詰から三の段への通路 右側が土塁になっている。 |
|
![]() 詰から三の段への通路 左の高いところが詰になる。結構な高さでなかなか登るのが大変そうだ。 |
|
![]() 三の段 詰の南から西にかけて造られたすぐ下段にある曲輪で石積がよく残っている。 南が幅約5m長さ約45m、西が4〜6m長さ約50m。 |
|
![]() 三の段の礎石建物跡 |
|
![]() 三の段の石積 |
|
![]() |
|
![]() 三の段から四の段への通路 |
|
![]() この辺りにも土塁跡がみられる |
|
![]() |
|
![]() 四の段辺りにある虎口(城の出入口) 桝形構造の虎口で、通路は狭く四の段の上部からも攻撃できるようになっていて、防御力の高い造りになっている。 |
|
![]() 虎口付近の石積跡 |
|
![]() 虎口付近の土塁 この上が四の段 |
|
![]() 虎口への通路 |
|
![]() 四の段 |
|
![]() 四の段付近にある「長宗我部氏岡豊城址」の標柱 |
|
![]() |
|
![]() 竪堀跡(伝厩跡曲輪と本城の中間辺り) 城の斜面の上から下へ掘られた空堀で、岡豊城には数多くあったようだ。 |
|
![]() 堀切(竪堀跡) |
|
![]() 伝厩跡曲輪 西方からの攻撃に対し、詰を中心とする本城を守る出城の役割を果たしていたと考えられている。 30m×17mの楕円形の曲輪。 |
|
![]() 坂崎紫瀾(さかざきしらん)(明治時代に活躍したジャーナリスト、小説家)が書いた碑文 戦国時代、四国を支配した長宗我部元親を偲び、その居城のあった岡豊山に岡豊出身の兵士たちが、 海を渡って戦役に活躍したことを褒め称えている碑文。(現地案内板より) |
|
![]() 展望台から見た伝厩跡曲輪 |
|
![]() 伝厩跡曲輪から見た南側展望 |
|
![]() 伝厩跡曲輪から見た南側展望 国府川がよく見える |
|
![]() 伝厩跡曲輪南下の堅堀 |
|
![]() 長宗我部元親 飛翔の像 歴史民俗資料館横(岡豊城登城口)に建っている |
|
![]() |
|
![]() 伝 香川親和(五郎次郎)の墓 親和は長宗我部元親の次男で、讃岐国の香川家に養子になり跡を継いだが、豊臣秀吉の四国征伐により香川家は改易。 親和は人質として大和郡山に送られたのち、岡豊に帰還する。戸次川の戦いで長男の信親が戦死すると、相続争いが勃発。 順番的には親和が有利であるが、父・元親は四男の盛親を溺愛していたため盛親が跡継ぎに決まる。親和は失意のためか 程なく病死したといわれる。親和は長宗我部一族累代の墓には葬られず、岡豊城麓に葬られたのがこの墓ということになる。 |
|
![]() |
| 岡豊城 関連年表 |
| 南北朝時代(推定) | 長宗我部氏が岡豊城を築城する。 |
| 永正5年(1508)〜 永正6年(1509) |
山田氏などの周辺国人に攻められ、岡豊城は落城。 長宗我部元秀(兼序)は自刃。 |
| 永正15年(1518)頃 | 一条氏の調停により、長宗我部国親が岡豊城に帰還する。 |
| 永禄3年(1560) | 国親が病死し、元親が家督を継ぐ。 |
| 永禄6年(1563) | 元親の留守中、安芸国虎に岡豊城を攻められるが撃退。 |
| 天正3年(1575) | 元親、土佐平定。 |
| 天正13年(1585) | 元親、四国平定。 豊臣秀吉の四国征伐により、土佐一国に減ぜられる。 |
| 天正19年(1591)頃 | 元親が浦戸城を築いて本拠を移したため、岡豊城は廃城となる。 |
| 岡豊城 周辺地図 | スポンサーリンク |
| 駐車場:無料駐車場(50台) (歴史民俗資料館) 最寄り駅:JR土讃線「後免駅」 訪問年月:2019年5月 |
![]() |
![]() |
| 高知城 | 岡豊城 |
| 戦国探求TOPページ>お城めぐり |
Copyright (C) 2009-2025 戦国探求 All Rights Reserved