明石城
(あかしじょう)

別名:喜春城、錦江城
国史跡、日本100名城(58)
場所 播磨国
兵庫県明石市明石公園
築城者 小笠原忠真(忠政)
築城年 元和五年(1619)
主な城主 小笠原忠真、松平康直、松平光重、大久保季任、松平忠国
松平信之、本多政利、松平直明
主な遺構 坤櫓(国重要文化財)、巽櫓(国重要文化財)、天守台、
石垣、水堀、曲輪、塀(復元)

歴史背景
 小笠原忠真(徳川家康の曾孫)は大坂夏の陣で父・秀政と兄・忠脩が戦死したため信濃松本8万石を継いでいたが、2万石加増され10万石の領主として播磨船上城に入る。徳川幕府は淡路の玄関口であり山陽道が通る交通の要衝である明石の地を重要視し、忠真に命じて明石城を築城させた。築城に際し幕府の援助と忠真の妻の父である姫路藩本多忠政の協力を得た。また資材は一国一城令により廃城になった近郊の船上城、三木城、高砂城、枝吉城等から運び込まれた。元和五年(1619)に完成し、元和六年(1620)に忠真は船上城より明石城に入り以後16年間在城したのち、寛永九年(1632)に豊前小倉へ転封となる。
 
 寛永十年(1633)に松平(戸田)康直が7万石で入封したが1年で死去したため、甥の光重が跡を継いだ。その後、大久保、松平、本多、松平氏と城主が替わって明治を迎える。



左が坤櫓(ひつじさるやぐら)、右が巽櫓(たつみやぐら)

城について
 明石城は明石海峡近くの丘陵に築かれた連郭式平山城である。坤櫓と巽櫓が現存し、いずれも国の重要文化財となっている。巽櫓は船上山城からの移築とされ、坤櫓に至っては伏見城からの移築遺構と伝わる歴史的にも貴重な建築物である。明石城には天守台が残るが天守が建てられたことはなく、坤櫓が天守の代用とされたようだ。本丸にはこの2つの櫓以外にも往時には北東側に艮櫓、北西側に乾櫓が建っていた。本丸に三重櫓を四隅に備えた明石城は10万石の大名のお城としてはかなり規模の大きな城だったことがうかがえる。また重要文化財の2基の櫓以外にも、南側にそびえ立つ高石垣は必見である。


坤櫓(ひつじさるやぐら)(国重要文化財)
天守台のすぐ南にある三層三階の隅櫓で天守閣に代わる役割を果たしたといわれる。伏見城からの移築遺構と伝わる。

巽櫓(たつみやぐら)(国重要文化財)
本丸の南東端に築かれた三層三階の隅櫓。船山城の遺構と伝わる。



坤櫓付近の石垣
階段は稲荷曲輪に繋がる。

天守台

稲荷曲輪から見た本丸の石垣

本丸北虎口付近の石垣

桜堀

本丸北虎口

天守台
実際に天守閣が建てられることはなかった。

天守台上部

城主御殿跡
現在野球場となっているあたりが城主の御殿跡とされる

艮櫓跡
本丸四隅の隅櫓のうち本丸の鬼門となる東北の櫓跡

三ノ丸跡
現在は芝生の広場となっている

南方面の眺め
遠くに明石大橋が見える

人丸塚(ひとまるつか)
柿本人磨公を祀った寺跡で、人磨公を城の守り神としていた

本丸東虎口

三ノ丸跡

東ノ丸の石垣
ここから東ノ丸に上る。

二ノ丸の高石垣

三ノ丸跡

太鼓橋跡から見た中堀

南大手・太鼓橋跡

明石城絵図(現地案内板より)


明石城関連年表
1615年(慶長二十年) 徳川秀忠の命により小笠原忠真が明石城を築城を開始する。
1619年(元和五年) 明石城が完成する。
1620年(元和六年) 小笠原忠真が船上城より明石城に移る。
1632年(寛永九年) 小笠原忠真が豊前小倉へ転封となる。
1633年(寛永十年) 松平康直が明石城に入る。



周辺地図 スポンサーリンク
駐車場:協会駐車場(有料・366台)
     県営駐車場(有料・134台)
最寄り駅:JR、山陽電鉄「明石駅」
訪問年月:2008年4月



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