篠山城
(ささやまじょう)

別名:桐ヶ城
国史跡、日本100名城

篠山城大書院
場所 丹波国
兵庫県篠山市北新町
築城者 徳川家康
築城年 慶長十四年(1609年)
主な城主 松平(松井)康重、松平(藤井)氏、松平(形原)氏、青山氏
主な遺構 天守台、二の丸大書院(復元)、石垣、水堀、
東馬出、南馬出、曲輪


歴史背景
 篠山城は慶長十四年(1609)、徳川家康が「天下普請」で築いた城である。主に大坂城の豊臣秀頼を仮想敵として築かれた城で、西国の豊臣恩顧の大名を牽制、また山陰地方からの援軍の遮断を目的とした。築城には加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長ら豊臣恩顧の大名を中心に二十もの西国大名が動員され、その大名の経済力を削ぐという側面もあった。建築工事は慶長十四年三月から始まり、六ヶ月で本丸、二の丸の石垣が完成するという突貫工事で行われ、十二月に松平康重(5万石)が八上城から移って入城した。
 豊臣氏が滅んだ後も西国大名の押さえの城として藤井松平氏(5万石)、形原松平氏(5万石)、青山氏(6万石)と幕末まで譜代大名が城主を務めた。


二の丸北東側の石垣と内堀
二の丸北東の犬走り

城について
 篠山城は篠山盆地の中央に築かれた輪郭式の平山城で、天下普請で築かれただけあって壮大な規模となっている。縄張りは築城の名手・藤堂高虎で上空から見ると正方形でシンプルな造りだが、当時高度な石垣造営技術を誇っていた穴太衆(あのうしゅう)が動員されるなど最先端の築城技術が用いられた。それだけに今も見ることができる石垣群の見事さには圧倒される。また訪問したのが桜開花の時期だったので、石垣と桜のコラボレーションも見事だった。馬出は三方に設けられたうち、東馬出と南馬出が残る。防御面で優れた機能を果たす馬出は当時としては最先端の縄張りで、篠山城はその遺構はよく残っている。特に南馬出は日本で唯一現存する土塁の馬出で必見だ。天守閣は建てられることはなかったが、高石垣の天守台が残る。建築物としては平成十二年に二の丸大書院が復元されている。



「史蹟 篠山城跡」石碑

表門跡

二の丸に続く枡形

黒鉄門跡
二の丸に至る最後の最後の門

二の丸大書院横の井戸

二の丸

二の丸大書院
歴代藩主による公式行事に使用された場所

大書院 孔雀之間

大書院 廊下

大書院 上段之間
最も格式が高い部屋

手鞠之間の鎧兜

大書院模型

篠山城の梵鐘
四代藩主・松平(形原)康信が寛文十二年(1672)に造り、
城中の道場にかけていたもの。

二の丸井戸

本丸
石垣の向こう側が本丸

本丸の石垣

本丸の石垣
自然の大岩を活用

青山神社鳥居

青山神社
1882年に本丸跡に建立された。
祭神は藩主・青山氏の遠祖青山忠俊と第12代藩主青山忠裕


本丸

本丸

天守台

天守台

天守台
石垣の高さ約17m、東西約18m、南北20m

埋門跡
二の丸南側位置する


北西側の石垣

北西側の石垣

北から見た西側の二の丸石垣と内堀

南から見た西側の二の丸石垣と内堀

南西側の石垣

南西側の石垣

埋門に登る階段

東馬出

大手馬出跡

南馬出


三の丸西側

三の丸西側

北堀

東堀

南堀

南堀




篠山城復元模型
手前が大手門



篠山城 関連年表
1608年(慶長十三年) 松平康重が常陸国・笠間より丹波国・八上城へ5万石の領主として入城する。
1609年(慶長十四年) 徳川家康の命で「天下普請」によって篠山城を築城する。康重、篠山城へ移る。
1615年(慶長十五年) 大坂夏の陣で大坂城が落城し、豊臣家滅亡。
1619年(元和五年) 康重、篠山城から和泉国・岸和田城に移封となり、松平信吉が上野国・高崎より
篠山に入封する。
1619〜1649年 藤井松平家5万石。
1649〜1748年 形原松平家5万石。
1748〜1871年 青山家5万石→6万石。
1944年(昭和十九年) 二の丸大書院消失。
2000年(平成十二年) 二の丸大書院再建。



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駐車場:
三の丸西駐車場(有料)
     大手前南駐車場(有料)

訪問年月:2018年4月




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